緋色の電球

タカハシカイト

Short short goodbye for(ever).

以前に旧友たちのドライブに同伴させてもらった時のことだ。帰る道すがら、運転席の彼が「引っ越す前にまた会えたら会おう」というような旨を言ってくれた。それが心の底からの言葉であるかそれともその場の雰囲気から出る常套句じみた友人への言葉であったのかを確かめる術はないが(確かめようという気にもならないが)、この時ばかりは素直に嬉しく思った。しかしわたしは性根が少しばかり捻くれているくせしてその所為で起こる人間関係の摩擦を避けたい小心者であるがために、内心そんな機会は来ないのではないかと思いつつも「会えたらいいね」などと生半可な返事をした。それからしばらく経って未だに、不思議な感傷を伴ってこのやりとりが思い出される。

 

「さよなら」でも「またね」でも、そういう別れの挨拶というのは、もしかしたらこの世で最も贅沢な言葉のひとつではないかと思う。そこからしばらく、あるいはずっと別々に過ごすことになる互いが、進む未来で相手の不在を理解しながらもなお、互いを結ぶ楔として最後の場面を飾る言葉。わたしはそれが、自分で使う分にはひどく気恥ずかしいものであることを感じると同時に、とても美しいと思う。刹那的だけれども、ひょっとするとその刹那を永遠かけて幾度となく思い出すかもしれない。

 

そんなことを思うのはここから先を生きていって誰とどれだけ同じ時を過ごせるだろう、とか考えてしまうようになったからかもしれない。終わらないのではないかとぼんやり考えていた生活は数年周期で入れ替わり、熱を入れたものごとやひとも時々忘れてから時々思い出してになって、次第に時々すら忘れる。それはわたしも彼らも誰も彼もが否応なく進んでいるから正常である、そんなのはわかっていて、それでも有りもしない記憶はたまに夢に出てくる。起き抜けに毛布に包まれたわたしだけが、青になった横断歩道の前でただただ突っ立っているような、切ない錯覚に囚われる。

 

暫時あるいは二度と会うことはないのだろうという確かな予感がするとき、大抵の場合において最後の機会はもう疾うに過ぎ去っている。無力なわたしたちは最新の思い出を海馬から探し出して額縁に入れ、いつまでも飾っておきたくなる衝動に駆られる。でもそれは単なるひとつの象徴だ。ジグソーパズルでいうところの偶然最後に残ったピースであるというだけで、だから完成したその絵をこそ飾るべきだ。そういうことを知っていながら、そのラストピースを大事にしてしまうからこその人間らしさだとも思うけれど。

 

だからなんとなく、家族というのはなによりもさよならが言いたい相手とつくるものなのだろうかと思ったのだ。どんな最新を最後にしても大丈夫だと、ある意味いつでも最後にする覚悟ができている関係なのではないかな、と先日漠然と思い至った。単純に好きだということとはやはり少し違うものだと思うし、また好きも嫌いも超えてその人に関しては清濁併せ呑むといったようなところがある。というか、わたしがそう思ってしまう。

 

つまるところドラマチックになりきれないわたしたちは「会えたらいいね」がラストシーンでも構わないのだ。どうせまた会える、とたかをくくって、そんな日が最後だったということなんてわたしが覚えている以上に存在する。これからだって増えていく。だから生き方を改めようなどと安っぽい決意を掲げるつもりは毛頭ない。さよならと告げて行くことはきっと余り有るほど贅沢な幸せだ。だからこそ、音をたてずにひっそり過ぎ去った数多の別れの瞬間を愛おしく思うし、それこそがまともな挨拶すらできなかったわたしとあなたを繋ぐ透明な楔であるのだろう。その瞬間から出発したそれぞれの足跡が辿り着いた砂漠の最果てで、互いが同じ雨に傘をさしていた情景を思い出せたとしたら、それ自体が虹のような僥倖だと思う。